
カールツァイスの歴史
カールツァイス財団についてT
カールツァイス財団についてU
天体望遠鏡
双眼鏡開発100年の歩み
双眼鏡と日本海海戦
『ロード・オブ・ザ・リング』撮影用カメラ
カールツァイスの理念
年表 150年の歩み
カールツァイス財団について T
カールツァイス財団は1896年にエルンスト・アッベ(1840−1905)によってイエナに
創立されました。アッベは会社の創立者カール・ツァイス(1816−1888)の技術担当の
協力者であり、共同出資者であり、そして友人でもありました。
カール・ツァイスの死後、社主となったアッベは自身の内的葛藤の末、友人や専門家と
協議をして、財団を設立し、この会社の創立者であったカールツァイスの名を
冠したのでした。
アッベは、当時既に光学分野において多大な功績を残しており、ここに彼は偉大な科学者でありながら、偉大な社会政策家となったのでした。アッベを財団設立へと導いたのは、「企業の成果は個人の業績、すなわち社主ひとりによるのではなく、多くの人々の協力によるのだ」という彼の強い思いからでした。人々の協力によって挙げられた成果に皆が
参与できない事は、彼にとっては道徳的に公正でないと感じていたからでした。
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そんな彼が設立したカールツァイス財団には、広汎かつ重要な内容を盛り込んだ定款(寄附行為)が掲げられました。ここで定款の
内容についてみていきましょう。彼はかねてより企業存続のため
要素として「資本要因」「労働要因」「(彼の言う所の)精神資本
要因」という三つの要因を掲げていました。この三要因を安定させ、開発することによって、皆が自分達の生産活動の寄興分に相応しい賃金を与えられる事は当然必要だったのです。
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財団企業は自由市場で資本獲得が見込めないので、財団企業が「資本要因」を満たし
自己資本を創造するため、財団に属する工場の営業政策の基本方針を定めました。
「労働要因」に対しては、有給休暇を取る権利、固定時間給の創設、残業手当の導入など、労働者皆の権利・利益が全うされるように、定款の発効前からいち早く行き届いた対処を行ってきました。企業は将来をも見据え、自らの活動が光学工業全般ひいては企業を超えた科学と研究・教育の振興に寄与していくことを定めることにより、彼の抱いていた
「精神資本の要因」の姿勢を示しました。それに加え、従業員とその家族の生活に深く
関わる、学校、病院、など多くの社会共同体・公益的なものや、社会活動に対しての援助が定められています。定款からカールツァイス財団が、創立者の意志に沿っていかに
運営されているかを、読み取る事ができます。財団の最高機関として「財団評議員会」を設け、その任は政府機関に委ねられました。このことは公共の利益を擁護するチェック
機関を設けると同時に、国家からのリスクを除去するためでした。
財団評議員会は企業経営の監督を定期的に行ない、あらゆる情況に確実な判断をくだす
ことが求められますが、複雑を極める経営活動を把握するのは部外者である評議員に
とっては難しく、財団評議員会と企業経営者の間に常任で在職する「総理事」を置きました。また、財団企業の経営管理を担う機関として「役員」を定めています。役員は企業
存続には研究活動が最重要であるため、その中に一人は必ず専門の知識を有するものを
置いて、財団の生産活動を指導し、営業活動を管理する機関となりました。
会社を財団に改変した目的は、銀行、株式取引所、株価に依存しないものにする狙いが
ありました。持ち分とか株式や取引も存在せず、企業と関係のない資本が経営活動に介入する事を怖れる必要もありません。最後に定款の定めるもうひとつの重要な事項が
あります。役員が一財団総理事に対して具申をしたあとで一企業側が経済的理由や問題のために、企業の存続が危うい場合、資本参加という形で積極的に介入するべきであるか
否かを決定することを義務づけています。定款では「財団企業の外部にあって精密機械
工業の全般的利益に関する事項」として、財団企業が定款の定める所を順守しつつ他の
企業に資本参加する事を示しています。このようにツァイス・グループの発生は歴史的には50年以上を遡り、現在では財団企業のほかに国の内外に約2万2千の従業員と20の
系列会社を持つツァイスグループとなって広く援助・協力体制を築いています。
カールツァイス財団は、近年多くの人々の関心を集めており、この財団のあり方が企業
財団のモデルとして研究・検討されてきています。恐らく日本に於てもカールツァイス
財団はモデルとして注目を受ける事でしょう。
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カールツァイス財団について U
1896年、カール・ツァイスの逝去後、光学工場の唯一人の所有者となったアッベは、
カールツァイス財団を設立し、自らの財産をすべて財団法人へ移管しました。
「企業体の物質的、観念的成果は、一個人の、あるいは少数の人々の働きだけでなく、
労働力を提供したすべての人々の結集によるものである。故に、企業体の成果は、総員に分配され、出来得る限り、その生涯の保証をしなければならない。もちろん、企業体は、それ自身の存続が保証され得るような基本的前提が確立してはじめて、その役割を実現し得るものである」。
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ツァイスとアッベの共同の働きのうちに深められた科学と技術の密接な協同作業という認識が、企業体に働くものの社会的なあり方についての認識へと発展し、彼のこのような考え方をまとめた財団法人規則がつくられました。これは、一般に、「アッベ定款」とも呼ばれ、今日の労働法や社会保障の基本ともなったのです。
ここで、重要なことは、アッベが財団の自主独立性を強く訴えた
ことです。「自由な発想に基く科学的な研究活動が次第に大きく
なる管理機構や国家的権力によって決して阻害されてはならない」と。
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また、彼は生産や供給過程における労働の高度の役割についても深く理解し、当時としては画期的な労働基準をもうけたのです。従業員に対する一日8時間労働を実施したのも
世界で初めてのことでした。また、当時、他の企業ではほとんど考えられなかった、有給休暇、固定時間賃金、超過勤務手当、労災疾病保障、労働者代表制、退職金や恩給制度の確立、人種・政党・宗教による差別待遇を受けてはならないことも財団の精神として
採り入れ、一方では、事業の利益を、社会、科学、文化などの公益事業にも向けました。
また、財団は優れた技術や設備をもちながら、資金難や後継者不足に苦しんでいる企業に対し積極的な援助を行い、1911年には、顕微鏡において世界的な名声をもつ、
ヴィンケル社が財団に加わりました。はじめ、アッベのこうした観念的概念について
行けなかったショットも、1919年、ショット企業の彼の持ち株をツァイス財団に譲渡したのです。1926年には、ライカと共に名作といわれる「スーパーシックス」や
「コンタックス」を製作したカメラ会社である、ツァイスイコン社。続いて、
多焦点レンズやプラスチック眼鏡レンズ等で有名なエミール・プッシュ社。カメラ用
シャッターの最高峰、コンパー社。双眼鏡のヘンゾルト社等。次々と財団に参加し互に
独立性を尊重しながらも、技術や財政的問題を助け合って、ついに、精密機械、光学工業における一大コンツェルンの形成をみたのです。
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ツァイス製 天体望遠鏡
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1993年9月1日、小惑星5489 は、ドイツカールツァイス社の所在地にちなんで「オーバーコッヘン」と命名されました。これは、1993年1月17日串田嘉男氏および村松修氏の両氏が、八ヶ岳南麓天文台において小惑星を発見した際、
たまたまカールツァイス社の技術者であるH.メルクレ、
A.フライの両氏が同天文台に逗留していたことにちなんで
名付けられたものです。
一般に、小惑星には神話や発見者の名前が冠されることが
多いのですが、天文観測には光学機器が使用されることから、今回のように光学機器メーカーにちなんだ命名も少なくありません。これまでにカールツァイス社創業者の名前に
ちなんだ「ツァイシア(Zeissia)」、同社のプラネタリウムの発明者バウアスフェルド(W.Bauersfeld)からは
「バウアスフェルダ(Bauersfelda)」、同財団の創立者であり科学者でもあった「アッベ(Abbe)」、同社の創業の地である「イエナ(Jena)」、近代ガラス技術創始者である「ショット(Schott)」などが小惑星の名前として命名されています。
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カールツァイス社の天体望遠鏡は世界中で用いられており、代表的なものとしては
イラク国立天文台のINAO、ヨーロッパ南天文台のNTT、マックスブランクの3.5m、
ヨーロッパ連合のGalileoなどがあげられます。
日本では、京都大学飛騨天文台(岐阜県)のDST(ドームレス太陽望遠鏡)・65cm屈折望遠鏡、国立天文台(東京三鷹市)PMC(自動光電子午環)、通信総合研究所(茨城県)
15cmクーデ式望遠鏡、長崎市科学館(長崎県)70cm反射式望遠鏡などが活躍しています。また、一般に身近なプラネタリウムでもツァイス製投影機が使用されています。
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双眼鏡開発100年の歩み
遠距離の目標物を近くに引き寄せてみることは、有史以来からの人間の願望でした。
光学的知識と実験に基づいた“光の屈折による遠距離の物体を近くに引き寄せて見る”と
いう考え方は、13世紀に始まりました。J.B.デラポルタは望遠鏡に関して詳述し、
1600年頃オランダのJ.Lippreheyによって厚紙で作った筒の先端に二枚のレンズを固定
した簡略ながらも有用な望遠鏡を完成させました。この二枚のレンズから望遠鏡の開発が歴史始まったのです。この発明をきっかけとして、1610年イタリアの自然研究者ガリレオ・ガリレイは同種の望遠鏡を完成させ、自らの天文観測に使用し成果を上げました。
このタイプの望遠鏡には彼にちなみその名が冠されました。
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使いやすいガリレオ式の複式望遠鏡は前世紀の中頃に広く普及し、戸外での観察の他、軍事目的にも利用され、現在でも耳にすることができる「野外双眼鏡(Feldstecher)」と呼ばれるようになりました。しかし、この種の望遠鏡では、視野が非常に狭く、数多くの
改良にも関わらず、性能の向上には限界があったのです。その後、イタリアのI.ポロはプリズムの使用により、漸く望遠鏡の小型化と性能向上の可能性を生み出すこととなったのでした。
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そして1870 年代に至り、カールツァイスのパートナーであった天才的なE.アッベは
科学的な原理に基づいた光学系の理論と計算式を確立し、初めて均一で最高の光学機器の大量生産を可能としました。アッベは望遠鏡の両眼観察に注目し、折しもO.ショットの
改良したレンズを用いて複式プリズム望遠鏡を開発したのでした。良好な立体像を得る
ためには、対物間の間隔を拡大するというアッベの着想により、1893年7月9日付けで
ドイツ帝国特許庁はカールツァイス社に「対物レンズ間隔を拡大した複式望遠鏡」のための特許第77086 号を授与しました。カールツァイス社製プリズム双眼鏡は双眼鏡としての完成品であったと言うことができるでしょう。こうしてアッベの発明とショットの
新光学レンズとカールツァイス社の精密製造技術により、類を見ない画質を提供する
複式プリズム望遠鏡の大量生産が可能となったのでした。製品は初年度一年以内に
12,000台以上も販売されるなど、品質と実用上の信頼性により、ツァイス社製双眼鏡は
短期間の内に世界中で名声を博することとなりました。
以降、ツァイス社は初の狩猟家向け「狩猟用望遠鏡5x25」や光量の少ない時にも詳細な
観測ができる双眼鏡7x50(商品名:ビノクター)を登場させました。1917年にはツァイス社は視野を著しく拡大できる広角接眼レンズを開発し、より多く広い範囲を見渡したいという願望に応えることになりました。また、戦時中には、ツァイス社でも軍事目的の
特殊双眼鏡が開発され、監視用双眼鏡や気密機構を備えた潜水艦Uボート用双眼鏡も
含まれていました。第二次世界大戦後のドイツ東西分裂とイエナのツァイス企業接収に
より、ツァイス財団は当時の米国占領地域のハイデンハイムヘその拠点を移し、新天地で製造工場の再興に着手したのでした。
1954年には、オーバーコッヘン工場で制作した新設計の光学系超小型製品として新規範を示すほどの画質性能をもつ双眼鏡機種8x30が市場に登場しました。
1958年、眼鏡装着者用接眼レンズ(B接眼レンズ)が開発され、現在ではツァイス社製の全双眼鏡にこのB接眼レンズを装着するようになっています。1964年以降、ツァイス社製双眼鏡は姉妹会社のヘンゾルト社(ヴェツラール市)で製造されている。1969年、最初の折り畳み式ポケット双眼鏡として市場に登場した8x20により、ツァイス社は世界的な動向に影響を及ぼした。この双眼鏡は、本格的な実体顕微鏡としても使用できるという他に
類を見ない特色があります。1990年には手振れを抑制し、画像を安定させる機能を備えた機械式スタビライザー付き双眼鏡20x60Sが紹介され、初めて20倍の高倍率でも素手に
よる落ち着いた観察が可能になりました。例えば、この双眼鏡により、裸眼で100m遠方の鳥が5mの距離にまで引き寄せた状況で、鮮明に観察できるのです。
これまでに見てきたように、カールツァイス社は技術的な進歩を計りながら、最高品質の製品の提供を基本政策として開発を推進してきました。多くの先駆的な技術開発と抜群の刷新力により、過去100年間に約100 種類もの双眼鏡(望遠鏡)を開発するなど双眼鏡の発展に多大な業績を残してきました。現在、各種の分野にわたり対応できる多数の機種を常に供給しています。カールツァイス社はこのような政策を将来も変わりなく引き継いでゆくでしょう。
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双眼鏡と日本海海戦
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明治38年5月27日(1905)の日本海海戦は、日本海軍がロシアのバルチック艦隊に
大勝利した歴史に残る大海戦でした。
日本海軍は機先を制し、日没までに48隻のバルチック艦隊の大部分を沈没したのですが、日本とロシアの砲弾の命中度には格段の差があったといわれています。敵艦との距離を測るのに、英国バーアンドストラウド社製のハイテクの測距機を大量に使用したことと東郷司令長官愛用のツァイス社製の
プリズム双眼鏡によって、着弾点を正確に
把握できたためです。
これは5倍と10倍の切り替え式(ターレット型)という特殊な双眼鏡で当時最高の
精度を持っており、明治37年頃日本橋の
小西本店が200 台以上をカールツァイス社から輸入して飛ぶように売れました。一台
約400円で、当時の月給の一年半分に相当する高価なものでした。東郷司令長官も
ツァイスのファンだったのですね。
(築地物語第43号より)
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カールツァイス、「ロード・オブ・ザ・リング」のオスカー受賞に沸く
2004年3月5日(東京) -
残念ながらアカデミー賞にベストレンズ賞はありませんが、
カ−ルツァイスは今年度のアカデミー賞授賞式を祝うはっきりとした理由がありました。映画「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズ第三作「王の帰還」が、ノミネートされた
全11部門を制覇したからです。11部門での受賞という偉業を成し遂げたこの作品の撮影には、カールツァイスのレンズが使われました。
この壮大な作品には、100を超えるツァイスのレンズが使用されました。使用されたレンズには、「ウルトラ・プライム」の広角用のレンズや望遠用レンズ、また「超高速」レンズも
含まれています。こうしたレンズの中には、まだ試作品であったにもかかわらず、
トールキン作品を映画化するのに採用されたレンズもあります。監督のピーター・ジャクソン氏は撮影のために、特別にこれらのレンズをカールツァイス本社のあるドイツから、撮影場所のニュージーランドまで送ったのです。
撮影責任者であるアンドリュー・レズニー氏は、至近距離撮影でも際立った画像の質を
可能にする、「ウルトラ・プライム」レンズシリーズに信頼を置き、撮影をおこなって
きました。レズニー氏にとって、至近距離での画像の質の高さは極めて重要な課題でした。というのも、大胆なクローズアップ場面を、息を呑むほどシャープで鮮明な映像にする
ことが、この映画では求められたからです。そして、それを可能にしたのがツァイスの
レンズです。さらに、色収差の補正に卓越しているツァイスのレンズは、映画の3分の1を占める特殊撮影をごく自然な映像に仕上げました。
カールツァイスのレンズが、本作品の視覚効果におけるアカデミー賞受賞に一役買ったといっても過言ではないでしょう。
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時代を超えて輝き続ける財団企業 カールツァイスの理念
1846年11月17 日。カールツァイスがイエナ市ノイガッセに顕微鏡製造のための工房を開設したこの日から、ツァイスの歴史は始まります。
「人間と科学の直結こそが、企業としての発展を最大限に保証する。」
工房設立の際にカール・ツァイス自らが語った言葉どおり、ツァイスは精密技術と
光学分野に数多くの先駆的な業績を打ち立てることで大きく発展してきました。
そしてこれを支え育んできたのが、パートナーであるエルンストアッベが提唱した
『財団企業』という特異な企業形態なのです。
企業としての成功も科学上の貢献も、それにかかわるすべての人々の協力の結果であるというアッベの理念が社会保障制度を備え、研究・開発に積極的な企業体質を育て上げてきたのです。
ツァイスの企業活動の原点は、応用志向の研究を基本姿勢とした、光学、ガラス技術、
精密技術およびエレクトロニクスの各分野での高品質な製品の開発・製造・販売です。
そのために従業員の10人に1人が研究・開発員として活躍し、年間売り上げの10%以上が研究・開発費として投入されてきました。

カールツァイスに始まる、何事にも妥協を許さない姿勢が今日なお、一貫して守り続けられているのです。科学史に刻まれた輝かしい業績の数々。理想とも言える財団企業としての体制。また1990 年には東西ドイツの統合により、旧東独のカールツァイス公社を
グループに編入し、ふたつに引き裂かれていたツァイスは再び一つのマネジメントの下に組織されました。
財団企業カールツァイスがあゆみ続けてきたこの150年。それは歴史としてだけではなく、未来への限りない可能性として語られてこそ、価値のあるものなのです。
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ツァイス、150年の歩み
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1846年
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カール・ツァイスが顕微鏡製造のための工房をイエナ市に設立。
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1872年
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エルンスト・アッベの計算による「ツァイス顕微鏡」の生産開始。
カールツァイス社の商業的工場生産が始まる。
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1889年
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エルンスト・アッベによりカールツァイス財団設立。
社会保障制度を備え、当時としては破格の待遇を供与する。この後、カールツァイス財団はカールツァイス社とショット社の唯一の所有者となる。
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1896年
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パウル・ルドルフ、カメラ用レンズ「プラナーF3.6」を設計。
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1935年
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レンズの反射防止コーティングに成功。光透過性を飛躍的に高める。
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1945年
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第二次世界大戦後のドイツ東西分割により、イエナ市はロシア占領地域となる。イエナ市の工場は解体され、多くの科学者たちがロシアへ連行された。またカール ツァイス社の経営陣と主な科学者たちは米国によりハイデンハイム市へ移送される。
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1946年
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オプトン光学工房オーバーコッヘン有限会社(後のカールツァイス・オーバーコッヘン社)をオーバーコッヘン市に設立。
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1951年
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国有企業カールツァイス社がイエナ市(東独)に登記される。
カールツァイス社はカールツァイス財団の一企業としてハイデンハイム市(西独)に登記される。
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1953年
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「ツァイス手術顕微鏡」完成。微小外科手術が始まる。
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1961年
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9月、東京都港区にカールツァイス株式会社を設立。
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1973年
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世界初の高精密CNC万能三次元測定機「UMM500」開発。
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1982年
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解像力を大幅に向上させた「レーザースキャン顕微鏡システム」開発。
顕微鏡による研究領域を更に広げる。
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1984年
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エネルギーフィルター内蔵電子顕微鏡「EM902」開発。
電子顕微鏡新世代を開く。
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1990年
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「ROSATエックス線衛星」開発。世界でも平らな鏡面を製作。
ドイツ統一を受けて、東西のツァイス2社の統合に向けての体制を確立。(1995年実現)カールツァイスシステムズエンジニアリング株式会社設立。
カールツァイスビジョン株式会社設立。
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1991年
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カール ツァイス ・イエナ社設立。
ハンフリー株式会社設立。
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1994年
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「MKM」開発。コンピュータ・ナビゲーションで、より正確で確実な脳神経外科手術を可能に。
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1995年
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航空機搭載の偵察カメラや熱感知カメラで平和維持軍部隊に貢献する。
カールツァイス・イエナ社の49%の所有権をカール ツァイス・オーバーコッヘン社が取得。
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1996年
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新レンズシステムにより、256MbitDRAMメモリーチップ製造の可能性を広げる。ツァイス望遠鏡を使用したSILEX実験開始。衛星同士の光通信技術を試験。
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